本書のタイトルである「誰も書けない英文法」にまず注目していただきたい。「誰も書かなかった英文法」ではないということに本書の意義と目的があると言っても過言ではないのです。どういうことかといいますと、論理的反論を全く加えることなく、本書の主張をかたくなに拒否し続けるのが日本における大多数の英語教育者、学習者であるという恐るべき世界が存在するのです。従って、本書の主張を模倣するような英語関係者が出現する可能性は限りなくゼロに近く、著作権云々の心配も全くないのです!。例えば、日本の英語関係者は、本書が指摘する「be動詞など無くとも過去分詞だけで受身の意味を表す」などということは絶対受け入れようとしないのです。何に対して義理立てしているのかは、私には分かりませんが、死んでも「be動詞は受身とは何の関係もない」と言い切ることはできないらしいのです。
著者などは、この頑迷な態度に出会う毎に苛立ちを覚えると同時に、かえって「こいつらの英語力はこのレベルで終わってしまっているな」という優越感さえ覚えてしまうのです。そしてこの、判断力ゼロの「思い込み状態」を"Mental Block" という副タイトルとして表し、本書の内容のようなものが受け入れられない日本の精神的土壌の特徴を記述しています。なぜそのような比較文化論的なことが可能であるかは以下の通りです:
遺伝学の父メンデルが「サル」や「チューリップ」を選ばずに、「エンドウ豆」を選んだように、文化を比較する場合も、現象的に微妙な違いしか認識されない食習慣や、衣習慣などを使うのは、はっきり言って方法論的に正しくありません。2つのものの本質的なものについて比較する場合は、「他の民族と比較した場合の日本人の英語習得能力」のように現象的に大きく異なる事柄を対象に選ぶのが正しい方法なのです。食習慣、衣習慣、政治体制、文学、経済活動、音楽、スポーツなどの面ではこの本質的な相違は現象的には微妙な違いとしてしか認識されないのです。だから、たまたま現状では弱い日本のサッカーを評して「欧米は足の文化であるのに対し、日本は手の文化である」などという実にくだらないことをいう学者まで出てくるのです。これは、「日本のサッカーが弱い」という実にあやふやな事実を基にしたためで、次のワールドカップで、もしベスト8にでもなれば、こんな馬鹿な結論が出てくる余地はないのです。そういう意味で、日本人が他の民族と著しい相違を呈する外国語の運用能力という側面は、文化比較の恰好の材料であるということもできるのです。つまり、「英語の習得能力」という面で、他民族と日本人の精神構造の本質的な相違が増幅された形で現れるということです。
本書は英文法の問題点を指摘、解明することもその目的の一つですが、日本人の英語に対する態度が日本人の精神構造そのものであるという本書の指摘にも興味をもっていただきたいというのが著者の本音です。(但し戦前の「敵国の言葉」とレベル的には、全く変りのないよく議論されている「英語帝国主義」論などとは全く異なる次元の話ですから注意してください!)
「私はその本を読みたい」(=I want to read the book.)が言えても、「私の読みたい本」が言えない。
「私は7時に起きる」(= I get up at seven.)が言えて、「私は8時に起きていました」が言えない日本人の英語力
本気でコミュニケーションをしたいのであれば、上のようなことは当然問題となってくるはずですが、文法書で取り上げていないという理由だけで、日本ではほとんど問題にされないばかりか、「7時に起きる」と「7時には起きている」の意味の違いにさえも気づかない場合があります。本書はこの日本人の英語力も脆さを指摘し、その原因、対策、そして正しい英文に対する取り組む姿勢を解説したものです。原因として多くを指摘することができますが、先ず主要な原因を初めに挙げておきます。
英語の習得方法の原理は簡単です。英米人が使う英文をそのまま真似をすればよいだけです。そして、この原理は日本では少なくとも表面的には実践されているのです。例えば、英会話教室等で英米人から直接英語を学んだり、海外に留学したりする人が年々増加していますすし、またTime誌などを教材に使っている勉強グループ等も全国には数多く存在しています。このような傾向から判断すれば、日本人の英語もようやくジャパニーズイングリッシュから脱却しているはずであると思うのが当然なのですが、実はこの恵まれた環境はほとんど機能していないのではないかと思わざるを得ない事例が多く存在するのです。
このことに初めて興味を持ったのは、英国で4年間も留学してきた私の友人が "bloody"という英国で常時使われる単語について「そんな単語など聞いたことがない」と言い張るのを聞いたときです。「このような超頻出語を全く耳にしないで、よくも4年間も英国で生活できたものだ。よほど高貴な人達ばかりに囲まれて生活でもしない限り、こんなことは不可能なことだ。」と私は思ったのです。この現実に存在する不可思議な現象をどのように説明すればよいのかということを考えたあげく、私は次の結論に達したのです。「大多数の人間は見たいものしか見ない。」という結論です。その後、この仮説を裏付ける例が身近にも多くあることが分かってきました。Time誌等を教材に使っても、自分の既に知っていることを確認するだけで、自分の持ってる知識や理論に反するような英語の語法に出会ったとしても、それに気付かなかったり、無視したり、そして、信じられないことですが、気付いたとしてもTime誌などで使われている語法を、「文法的には誤りである」などと言う解説書まで存在するのです。次の文は New York Timesの社説ですが、日本の多くの文法学者はここで使われている語法(下線部分 )については否定的な態度をとるのです。
| The rate of change in our world is simply dizzying, and it is only natural to wonder whether humans who live in 1999 are different somehow, given the explosion of technological innovation in their life time, than humans who lived 1,000 years ago. New York Times |
「英語を学ぶのはネイティブでなければならない」などと言っておきながら、New York Times の社説で使われているこの "different than.."という表現が正しいことを認める人は少ないのです。なぜ、"different than"という語法が存在するのかという理由や原因は分からなくとも、その語法が現実に存在するという事実を認めることくらいは誰でもできるはずなのです。この頑迷な人達は文法書を開いて恐らく次のように主張するでしょう。「"different than..."や "different to..."は誤用であると文法書に書いてある。」 しかしこの態度は、ブランド指向が強いとされている日本人らしからぬもので、New York Times というブランドを無視し、日本のローカルな出版社による英文法書を重視するという、非常に大胆な「反権威主義」になってしまっているのです。この「短いものに巻かれる」という行動様式が日本人によくみられるのです。「長いものに巻かれる」も決して誉められた態度ではありませんが、「短いものに巻かれる」ことはさらに悲劇的です。読者諸氏も自分自身にこのような傾向があるかどうかを次の実験で確かめて下さい。
| 実験 "acoustic"という語の発音を辞書で確認した後、それに従って発音して下さい。 |
カタカナ表記で申し訳ありませんが、「アコースティック」ではなく「アキュースティック」と発音する勇気がありますか?ない人にとっては本書は残念ながら無用の長物です。この時点で、本書を読むことを諦めたほうがよいでしょう
以上が「事実の存在を認めない」という日本の英語学習者の特徴についての説明です が、"different than.."に関連して、次のことも指摘しておく必要があります。それは「"different than..."や "different to..."は誤用であると文法書に書いてある。」とい うことの意味を日本では explicitにしか解釈できないという、勘の悪さです。例えば "Don't abandon your baby in a coin locker."(コインロッカーに赤ん坊を捨てないでください)という注意を見て驚いている外人に "It is illegal to abandon your baby in a coin locker."(日本ではコインロッカーに赤ん坊を捨てることは法律違反です)と言って日本は法律的に厳しい国なのだということを伝えようとしている人と同じ勘の悪さです。この外人が何に対して驚いているかということが全く分かっていないのです。「日本では赤ん坊をロッカーに捨てる人が存在する」ということに驚いているのです。文法書に「"different from.." "different to ..."と言ってはならない」と学習者に注意しているということは、実際に "different than..."や "different to .."という言い方をする人がかなり存在するということを意味しているのです。日本の英語学習者はこのような implicit(言外)の意味について全く気付いていないのです。そして、このことは「当たり前のことに関する 警告は存在しない」ということも意味しているのです。"Don't abandon your baby in a coin locker."のような警告は街のどこを探しても見つけることはできないということは 、決して赤ん坊を捨ててもよいという意味ではないのです。幼稚園の教室に「禁煙」の注意がないように、狭い路地のような道に「Uターン禁止」の道路標識がないように、当たり前のことは文法書には記載される必要がないのです。そして、英米人にとって当たり前のことは、必ずしも日本人にとって当たり前のことではない事例を指摘するのが本書の存在意義に他ならないのです。すなわち、英米の文法書に記載される必要がないくらい当然の事柄で、日本人にとっては当然ではない事柄は、日本人が指摘しなければならないのです。英米の文法書のコピーにすぎない多くの英文法書に記載されていることを全部覚えても、肝心の大原則の存在さえ知らない人が多いのはこのためです。
「私はその本を読みたい」に対応する "I want to read the book."という英語は簡単に作れる人は多いのですが、「私が読みたい本」に対応する英語を作れる人の数が激減してしまうのが日本の現状です。英米では「私はその本を読みたい」という内容を表現できるということは自動的に「私が読みたい本」という内容を表現できるということになっているため、わざわざ、その変換方法については説明する必要がなく、文法書にも記載する価値がないのです。しかし、日本人でこの変換方法を知っている人は驚く程少ないのです。「私が読みたい本」を英語で表すと、"the book I want to read"となるのですが、
"I want to read the book"と
"the book I want to read"
を並べて、両者の関係に全く気付かないという観察力ゼロにも驚くばかりです。英米の文法書も日本人の勘がそれほど悪いということを知っていたなら、日本人向けにこの変換方法(この場合は、"the book"という注目する名詞を先頭に移動する)を記載していたはずですが、「優秀な」日本人がまさかこのような簡単なことに気が付かないとは思わなかったのでしょう。(「関係節」参照)
驚いたことに言語の専門家ともあろうものが「be + 現在分詞は進行形である」という文と「進行形は be + 現在分詞である」という全く内容の異なる二つの文の区別がつかないらしいのです。「トマトは野菜である」ということが真であっても「野菜はトマトである」ということは真であるとは限らないという他の知的分野における論理学上の基本に対する意識が希薄であるという、粗雑な思考が英語教育や研究の分野ではまかり通っているのです。この結果、日本の全ての英語教育機関で「進行形とは?」や「受身とは?」という質問に対して「--- ing です」とか「過去分詞です」と答えると必ず「"be" + ---ing」とか「be + 過去分詞」のように "be"を絶対忘れてはならないという注意がなされるのです。"be"などなくとも、現在分詞や過去分詞だけで進行や受身の意味を表すことに気付かないために、現実には無数に存在する"be"を使わない進行形や受動態を自由に使える日本人は非常に少なくなってしまっているのです。数学で言うところの「必要条件」とか「十分条件」、「逆必ずしも真ならず」等という内容については英語研究者は無頓着であるため公式を誤解してしまっているのです。実は、この説明が理解されるなどとはあまり期待することができないということも、本書を書いた大きな動機の一つなのです。
本書は以上のような日本の英語関係者の態度によって歪められた英文に対する取り組 み方を正し、少なくとも英米で使われている用法を素直に受け入れる態度を身につけ、英語の学習に役立てていただくために書いたものであり、かつ、そのことを困難にしている日本人の精神構造についての感想を述べたものです。